どんな分野であれ、衆にぬきんでている者には、どこかしらぺてん師ふうなところがある。
なぜ私たちは、善行をなしたあと、どんなものでもいい、旗を立てて歩きたい、
という気分になるのだろう。
私たちの高潔な心の動きは、ある種の危険を伴っている。
私たちを逆上させるのである。
もっとも、まさにその逆上の結果が、高潔な振舞いになったのでないとすればの話だが。
高潔さとは、あきらかに酩酊の一形式だ。
会話がつづいていたのが、ぷつんと途切れ、にわかに沈黙が支配する。
この沈黙は、私たちを、突如として根源的なものへと突き戻す。
つまり、言葉を案出するのにどれほどの代価を支払わねばならないのかを、
私たちは思い知らされるのである。
自分がしたことを誇るのもよかろう。
だが、それよりも私たちは、自分がしなかったことを、大いに誇るべきではなかろうか。
その種の誇りを、ぜひとも創り出すべきだ。
何ひとつ達成できなかった。それでいて、過労で死んだ。
人間の一生の、きわだった出来事といえば、不和、決裂、これだけである。
私たちの記憶に、最後の最後まで残りつづけるのもそれだ。
私たちは、およそ、どんなものでも獲得することができる。
ひそかに熱望しているもの以外は。
いちばんの執着の対象には、手が届かない。
たぶん、これは正しいことなのだ。
私たち自身の、また、私たちが辿ってきた行程の、その精髄をなすものが、
具現されずに終り、闇に埋もれたままでいるのはよいことだ。
神の摂理も、やることはやるのである。
私たちの内心の敗北感には、魔力が宿っている。
各人、そこから効用と自負を引き出すべきであろう。
人間という人間に、うんざりしている。
それでも、私は笑うのが好きだ。
そして、私は、ひとりでは笑うことができない。
人間関係がかくもむずかしいのは、
そもそも人間はたがいに殴りあうために創られたのであって、
「関係」などを築くようには出来ていないからである。
いずれにせよ、私は、時間を無駄にしてきたとは思っていない。
私もまた、この錯乱した世界で、人並みに東奔西走してきたと申しあげておこう。